元バレー選手・狩野舞子の身長、中学高校、選手時代や所属は?久光、イタリア、トルコ、PFU

2012年に全日本女子代表としてロンドン五輪に出場した元バレーボール選手、狩野舞子(かのう まいこ)さん。

スポーツキャスターをはじめ、マルチな活躍をされていますが、バレーボールの現役選時代は波乱万丈な経歴をもっている元スポーツ選手。

狩野舞子さんのバレーボール歴や現役選手時代の情報をまとめました。

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狩野舞子さんの身長、年齢、血液型等プロフィール


狩野舞子(かのう まいこ)
生年月日: 1988年7月15日
(2020年時点・32才)
出身地:東京都三鷹市
身長:185cm
血液型:A型

≫ 狩野舞子さんのインスタグラム

≫ 狩野舞子さんのツイッター

狩野舞子さんの身長は185cmです。

狩野舞子さんの小学校に入学する頃の身長は135cmあり、同じ学年の女子の平均身長よりも25cmくらい高かったようです。

小学生の6年間で40cm近く身長が伸びて、小学校6年生の時には身長174cmにも達していました。同学年の平均よりも30cm近くも高く、頭ひとつ抜きんでた背の高さだったとか。

日本人の女子バレーボール選手の平均身長は175cm前後(日本人成人女性の平均身長は160cm弱)。狩野さんの身長185cmは女子バレー選手の中でもかなり高く、外国人選手並みに高かったと言えますね。

≪参考記事≫

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狩野舞子の小学校時代

狩野舞子さんの出身小学校は東京の三鷹市立第四小学校

三鷹市立第四小学校の近くには、その後、アニメ映画で有名な宮崎駿監督の「三鷹の森ジブリ美術館」がオープン(2001年)しています。

狩野舞子さんがジブリが好きになったのも納得できますね。

狩野選手が育った三鷹市は東京23区に近い場所でありながら自然や緑が多く、「東京周辺で住みたい場所ランキング」でも上位にあがってくるような地域のようです。

狩野舞子さんは小学校4年生の頃、三鷹市の大沢スポーツクラブでバレーボールを始めました。

狩野舞子さんはご両親もバレー選手というバレーボール一家に育ち、姉の練習を見ていて『楽しそうだな』と思ったのが始めたきっかけ。

小学4年生(10才)の時の文集には「10年後の夢はオリンピック選手」と書いていたそうです。

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狩野舞子選手の出身中学高校

狩野舞子の中学時代:2001-04年

八王子実践中学バレーボール部
引用©http://www.hachioji-jissen.ac.jp

狩野舞子さんの出身中学は東京の八王子実践中学校

姉の狩野美雪さんは中学からバレーボールをはじめ、公立中学校へ通いましたが、舞子さんは女子バレーボールのエリートが行く八王子実践へ進学。

背が高くバレーセンスもあった狩野舞子さんは、将来を有望視される選手選ばれる、JOC全国都道府県対抗中学バレーボール大会東京都代表選手となりました。

中学時代:中学3年15才で全日本代表に初選出

2004年3月、狩野選手が中学3年生の時、アテネオリンピック全日本代表候補18人のうちの一人に選ばれ、日本代表の合宿へ参加。

中学生が選ばれたのは、中田久美さん(2020年女子日本代表の監督)以来、24年ぶり

周囲の大きな期待と重圧を背負った狩野舞子選手でしたが、やはり、まだ15才の少女でした。

狩野選手は2004年のアテネ五輪を前に、大人が集まるチームの張り詰めた雰囲気に入り込むことに大きな不安がありました。自分が全日本チームという場にいることにも自信が持てていなかったと、後に語っています。

最終的に、2004年アテネ・オリンピックの選手には選ばれることはありませんでした。

さらには、この頃、成長期によくある痛み、骨の成長に背中の筋肉の発達が追いついてゆかないことで生じる腰痛にひどく悩まされ始めていました。この腰痛は、高校時代になっても狩野舞子選手を苦しめました。

狩野舞子の高校時代:2004-07年

狩野舞子,八王子実践,月刊バレーボール

狩野舞子選手の出身高校は東京の八王子実践高校

八王子実践高校は全国のバレーボールの名門。春の全国高校バレー(春高)への出場回数や上位入賞で全国でも5本の指に入る超強豪校。

八王子実践高校出身のバレー選手としては、三屋裕子大林素子多治見麻子など、日本女子バレー界を代表する人以外に、狩野舞子さんのお母さん八王子実践高校のバレー部出身でした。

八王子実践高校に進学後、1年生エース(2005年)として春の高校バレー(春高全国大会)で活躍。

2年生からはキャプテンとしてチームを率いていました。常に腰痛と戦いながら、春高での優勝を目指して、とても厳しい練習の日々を送っていたようです。

高校3年生の時の春高では、3回戦で優勝候補の東九州龍谷高校にあたり、惜しくも敗退。狩野舞子選手の春高バレーはベスト8で終わりました。

高校時代:熊田康則コーチ退場事件

 

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・ 八王子実践高校時代にコーチを務めてくださっていた熊田さん🐻 今大会は沖縄県代表、首里高校のコーチとして春高に出場されます🌺 ・ 熊田さんが身代わり退場になった古川戦が懐かしい… え?俺?ってなっておとなしく赤枠の中に閉じ込められてたのが昨日の事のようです🤣 あ、一つ訂正。 間違いなくおとなしくはなかったですね🐻笑 ・ 熊田さんのお陰でリフティングが上手くなりました⚽️ 本当に当時は問題児たちがお世話になりました!!笑 ・ #熊田康則 さん #🐻 #⚽️ #懐かしのオレンジ体育館 #🍊 #ここにいい思い出ある人いるんですか?

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高校3年の春高の初戦、宮城の古川学園との試合中、珍事件が起こりました。

当時、八王子実践高校のコーチを務めていたのが、1980年代に全日本エースだった熊田康則さん

タイムアウト中に疲れの見える選手たちを元気づけようと軽く叩くようなマッサージをしたのが反則行為とされました。春高の試合中の大事な場面で熊田コーチは退場させられてしまったのです。

そのことで試合中に涙が出てしまった狩野舞子選手に喝を入れたのは、1984年のロサンゼルス五輪で銅メダルと獲った八王子実践OBの三屋裕子さん。

「舞子ぉーしっかりしろーーッ!泣いてる場合じゃな~い!」と三屋さんが声援を送ったのです。

その後、トスが狩野選手に集められ、狩野選手もスイッチが入ったかのように得点を重ねていったシーンは、長い春高の歴史の中で、一つのレジェンドとなっています。

上のインスタ写真は退場事件から10年以上たち、狩野さんが熊田元コーチと再会したところ。

高校時代の恩師は菊間崇祠先生

八王子実践高校と言えば、八王子実践高校のバレーボール部を40年以上率いていた菊間崇祠(きくま たかし)先生が有名です。

菊間先生は突出した強いチーム作りを行い、トップクラスのバレーボール選手を輩出。八王子実践をバレーボールの強豪校として不動のものとした名物指導者です。

菊間先生は昭和時代のスポーツで一般的だったスパルタ的指導で知られ、時代が変わった現在は、その指導法にも賛否両論あるようですが、長年にわたり奇跡のような強いチームづくりをしました。

 

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・ 若かりし頃の菊間先生と私 おめかししてるから姉の祝勝会かなんかの時かな… ・ #いいねトラップ #八王子実践

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上のインスタ写真は、まだバレーを始めていない幼き頃、菊間先生と一緒に撮影した写真(狩野舞子さんのインスタより)。

「姉の祝賀会か何か?」と狩野さんがコメントしています(11才年上の姉の美雪さんも八王子実践高校でバレーをしていました)。

菊間先生も、現在、ご高齢となりました(2020年時点で86才)。

以下は狩野舞子さんのインスタで、2020年の春高バレーの会場で、菊間先生とお会いした時の写真。

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2007-10年:久光製薬スプリングス

狩野舞子さんは高校卒業後、大学には進学せず、Vリーグの久光製薬スプリングスへ入団。

入団した2007年当時の久光製薬スプリングスは姉の狩野美雪さんが所属し、久光製薬はVリーグでもトップクラスの強さを誇るチームでした。

狩野舞子さんは2007-2010年までの3シーズンをプレー。2009年の第58回黒鷲旗全日本選抜バレーボール大会では、敢闘賞・ベスト6を受賞しています。

その後、2010年久光を退団しましたが、イタリア(2010年-)、トルコ(2011年-)の海外リーグでのプレーを経て、2012-2015年まで再び久光製薬でプレーしています。

久光時代:右足アキレス腱の断裂事件(2008年2月)

久光製薬スプリングスへ入団した初年度、2007/08年シーズンは開幕戦スタメンで出場。

しかしながら、シーズン後半の2008年2月、試合中に右アキレス腱断裂のケガ負ってしまいました。

この時期は半年後に北京オリンピックを控えた超重要な時期

舞子さんが10才の時に目標にかかげたオリンピックへの出場は、2004年のアテネに続き、またもや実現しませんでした。

狩野舞子さんは、後に「その時はチャンスを逃して落ち込んだ」と語っています。

久光時代:左足アキレス腱の断裂事件(2010年1月)

右足のアキレス腱の怪我を治した狩野舞子選手は復帰し、右足の怪我から1年後には、再びプレーに輝きを取り戻しました

2009年5月には、再び全日本代表へ復帰。

しかし!!

2010年1月、今度は左足アキレス腱断裂という怪我をしてしまいました。

両足のアキレス腱を断裂するというのはトップ選手として致命的とも言える怪我。

左足のアキレス腱を断裂したときは狩野選手自身「もうバレーボールはできないだろうな・・」と覚悟をしたそうです。

2年間に左右のアキレス腱を断裂する不運に見舞われ、持病の腰痛、足の治療に専念するため、久光製薬を退団することになりました。

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海外イタリアとトルコ:2010-12年

その後、リハビリを続けていた狩野舞子さんですが、海外リーグへの挑戦が決まりました。

ここからの狩野舞子ストーリーは、本当にすごいです。不屈の精神と言って過言でありません。

一人で異国の地へ渡り、女子バレーボールの世界最高峰の海外2大リーグと言われるイタリア、イスラム教を国の宗教とするトルコでプレーを続けたのです。

イタリアのパヴァア:2010-2011年のプロ選手時代

2010年11月、バレーボール女子のイタリア1部リーグ、セリエAのパビア(Riso Sccoti PAVIA)へ入団。

狩野舞子さんはパビアへの入団会見で、

声をかけていただいてとてもうれしかった。セリエAはトップレベルなので、その中でプレーすることも自分のプラスになると思った

チームに貢献して、上の成績に行けるように頑張りたい。イタリアの良い部分を日本に持ち帰られるよう努力する

と抱負を述べました(引用:スポニチ

狩野舞子選手,イタリア,パヴィア時代
引用元©https://ameblo.jp/kanomaiko-blog

この頃の狩野舞子さんのブログがこちら。

https://ameblo.jp/kanomaiko-blog

このアメーバブログは狩野さんがイタリアのリーグでプレーをし始めた2011年1月からはじまり、トルコのプロリーグ時代、再び久光製薬でプレーしてから退団する2015年2月まで、約4年間、続いています。

狩野舞子選手のツイッターやインスタなどのSNSが主流でなかった時のファンとのコミュニケーション、自分との闘い、魂の記録です。

実際にはとても過酷な孤独との闘いですが、ブログの中に悲壮感がなくて清々しいのが、狩野さんらしくてよいですね。

トルコのベシクタシュ:2011-2012年のプロ選手時代

狩野舞子選手,イタリア,パヴィア時代
引用元©https://ameblo.jp/kanomaiko-blog

翌年、狩野さんはトルコのプロバレーボールリーグのチーム、ベシクタシュ(Beşiktaş Kulübü Bayan Voleybol Takımı)へ移籍。

トルコのバレーボールリーグは、当時の世界トップクラスの選手たちが集まるリーグ。

例えば、2012年ロンドン五輪で活躍したキム・ヨンギョン選手(韓国代表)、トム・ローガン選手(アメリカ代表)、ロシル・カルデロン選手(キューバ代表)など、世界のトップクラスの選手たちが多く在籍していました。

狩野選手が所属したベシクタシュは、トルコ最大の都市イスタンブールをホームとして、トルコ内でも歴史の長いチームの一つ。

両足のアキレス腱を切った後、狩野舞子選手のジャンプ力は低下。

海外で戦う間の狩野選手は身体能力まかせのスパイクではなく、相手ブロックを利用した巧みなスパイク、狙うコースの工夫、フェイントを混ぜた緩急のあるプレーなど、自分のプレースタイルを革新させるために、模索を続けていったそうです。

異国の地で進化をとげた狩野選手は、ベシクタシュのエースとして、チームメイトからの信頼を勝ち得ました。

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ロンドンオリンピックへ出場(銅メダル):2012年

狩野舞子選手,ロンドンオリンピック
引用元©https://ameblo.jp/kanomaiko-blog

狩野舞子選手は2012年真鍋ジャパンの中心選手としてロンドン五輪に出場

特に4強をかけた中国との死闘は忘れられない試合です。第2セット終盤の日本が劣勢の場面で狩野選手は出場。日本に流れを引き寄せました。

全日本女子チームは、28年ぶりとなる銅メダルを獲得!!

10才の時に文集でオリンピックのことを書いてから14年。狩野選手は24才でオリンピックのコートに立ちました。

久光製薬スプリングス:2012-15年

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©https://www.springs.jp

オリンピックを終えた狩野選手は、翌シーズンから、再び久光製薬スプリングスに復帰。

この時、狩野選手はアタッカーからセッターに転向しています。

バレーを始めてからずっと、アタッカーとして長いキャリアを積んできたのにセッターへ転向できるのは、狩野選手のバレーセンスの高さを象徴しているように思えます。

下の動画はセッターとしてプレーしているが狩野選手の動画です(背番号11)。

セッターに転向してプレーしましたが、度重なる怪我に苦しみ、2015年に1度目の現役を引退。

1年間バレーボールから離れ休養しました。

PFUブルーキャッツ:2016-18年

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©https://www.pfu.fujitsu.com

2016年、PFUブルーキャッツでスパイカーとして復帰。

2017-18年シーズンには、Vチャレンジリーグの準優勝に貢献しました。

狩野舞子選手:引退の理由

2018年5月、黒鷲旗を最後に狩野舞子選手はバレーボール選手として引退しました。

全日本代表クラスまでバレーを続けた選手の中で、狩野舞子さんほど怪我に悩まされ、波乱万丈な選手生活を送った人はいないと言っても過言でないように思います。

狩野さんは怪我をするたびに「神様からのメッセージ」と自分に言い聞かせて壁を乗り越えてきたそうです。

PFUを引退する頃には、体中が怪我や故障で傷だらけだったのではないかと思います。

狩野舞子さんは引退後のインタビューで

「すべてやり切ったので、完全に引退です(キッパリ!

と答えていたのが印象的です。

引退時の狩野選手のコメントがこちら。

この度、現役を引退することに決めました。ブルーキャッツの選手として過ごした2シーズン、多大なるご声援をありがとうございました。

会社や地域の方々と交流させて頂くことも多く、沢山の方に声を掛けて頂き、私にとって非常に大きな力となりました。
私のバレーボール人生は常に怪我と向き合ったものでした。
それでも代表や海外チームでのプレー、ポジションチェンジなど様々な経験をさせてもらえたのは本当に幸せなことだと思いますし、何よりも大好きなバレーボールをここまで続けてこられたことをとても嬉しく思います。

いつもそばで支えてくれた家族、友人、チームメイト、チームスタッフ、そしてファンの皆様に心から感謝申し上げます。
引用元:https://www.pfu.fujitsu.com/bluecats/topics/2017/20180423.html

狩野舞子(バレー)の中学・高校・Vリーグ等 現役時代 まとめ

これからもいろんなフィールドでの活躍にチャレンジして輝いてもらいたいですね。

当サイトは狩野舞子さんを応援します。

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